国境なき医師団(MSF)日本
手術室看護師 白川 優子
 [しらかわ ゆうこ]

白川 優子

1973年11月7日埼玉県生まれ。高校卒業後、4年制(当時)坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7 年間看護師として勤務。2006 年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年よりMSF に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど9か国で17回の活動に参加してきた。著書に『紛争地の看護師』(小学館刊)。

――高校3年の時、将来の進路を模索する中で気がついた「看護師になりたい」熱い想い

白川:私は将来働くことを考えて就職率の良い商業高校に進学、珠算や簿記を学び、休日は友人とショッピングに出かけたり、アルバイトしたり楽しい高校生活を送っていました。
高校3年になると就職活動が始まり、当時はバブルが崩壊する前だったので求人もたくさんあって、周りの友人は次々内定をもらっていました。就職に有利と思って商業高校に進学したのに就活する気になれず、決して働きたくないわけではなくやりたいことが見つからず、悶々とした日々を過ごしました。
偶然、友人が「看護師になりたいから商業高校では学んでいない教科を強化するため予備校に通って準備している」と言うのを聞き、「やりたいことはそれ!看護師になりたい」私の心が反応しました。そこからまっしぐら、看護師になるには、看護学校に入るにはどうしたらいいか調べました。

――働きながら正看護師の資格を取得

小川産婦人科小児科にて 2003 年渡豪直前

小川産婦人科小児科にて 2003年渡豪直前

白川:看護師養成の専門学校受験には高校普通科で学ぶ科目の履修が必須でした。准看護師から正看護師への道もありましたが、出身の埼玉、自宅近くに当時珍しい4年定時制の正看護師になるための学校、坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校がありました。商業高校でも受験可で道が開けて、私は3期生として入学しました。地域の病院で看護助手として働きながら看護師になるための勉強を続け、授業の一環としての病院実習もありハードな日々でしたが、36人の仲間と励ましあいながら頑張りました。
卒業後、看護師として7年間、2つの病院で働き、外科、手術、産科で経験を積みました。

――1999年国境なき医師団(MSF)がノーベル平和賞受賞

白川:MSFのことは小さい時から知っていて、すごい人達がいると憧れていましたが、自分とは遠い存在だと思っていました。1999年にMSFがノーベル平和賞授賞、授賞式をテレビでみた瞬間、看護師になった今の私なら役に立てる、MSFに参加して活躍したいと思うようになりました。
私は思い立ったらすぐに行動せずにはいられません。MSF事務局の門をたたき、説明会に参加しました。そこで突きつけられた現実「英語ができないと話にならない」そこからがジレンマとの闘いでした。

――英語ができないからと言ってあきらめることはない

白川:MSFに入りたいという気持ちに火がつき、すぐに近所の英会話学校に通い始めました。外国人と臆することなく日常会話程度はできるようになりましたが、看護師として仕事でつかえる英語力を身につけるのは簡単ではありません。それでもMSFは諦められない。30歳を目前に、結婚・出産について父からも周りからもいろいろ言われ悩みました。そんな時に母が背中を押してくれました。
「優子のこの想いは40歳になっても変わらないから留学したら」
オーストラリアの大学の看護コースは通常3年制ですが、日本の看護師資格をもっていれば1年で修了でき、看護師は永住権がとりやすい、永住権がとれたら就職もしやすいと知り、オーストラリアに出発しました。

――オーストラリアでの7年、永住権も取得

2004年頃メルボルンにて母と

2004年頃メルボルンにて母と

白川:不安よりワクワク感が強く、永住権、就職、MSF にも入れるくらいの英語力を身につけてみせると夢を持ちオーストラリアに到着しました。
当時のオーストラリアは看護師不足で外国人看護師の受け入れ態勢が整っていました。まず半年語学学校に通い、オーストラリアン・カソリック大学看護学部に入学しました。私はすでに看護師としての経験がありそれを英語に置き換えることが課題だったので、オーストラリア人の看護学を学ぶ学生とは互いに協力できました。

2006 年カソリック大学卒業式

2006 年カソリック大学卒業式

卒業後、看護協会に登録して資格を得て永住権もとれました。すぐに就職活動を始め、大学在学中からアルバイトしていた内視鏡のクリニックで正看護師として1年働きました。小さいクリニックで、患者さんと接するマナーや英語力を磨くのにいい経験でしたが、1年たって「もっと臨床をやりたい」。大きな病院の外科で内視鏡に強い看護師を募集していたので、マイナーサージェリーを行うデイケアユニットに転職しました。オーストラリアでは病院が一括採用するのではなく、部署ごとにほしいスタッフを募集します。これはお互いの特性を活かせるよいシステムだと思います。ここに3年いました。給料もよく、休暇も十分、残業もない。看護師と患者比率1:4以上にはならない。恵まれていました。このオーストラリアの7年は夢のような、充実した日々でした。

――恵まれた生活を手放すことに躊躇はなく帰国

白川:オーストラリアで看護師になりたいという日本人が増え、それでもなかなか難しく挫折する人が多かった中で私はうらやましがられましたが、一方でもの足りなさを感じるようになっていました。
当初はコミュニケーション、英語力不足で自分が思う看護のパフォーマンスができていないというくやしさがあり、それを克服するために必死でがんばりました。その後オーストラリアの人たちの温かいサポートを得て自信もつき、チームリーダーを任されるようになりました。
私は目の前の越えなければならない壁、目標がなくなるととてもむなしくなり、次の新たな道を求めます。
オーストラリアを去る時がきた、なぜなら私は英語が使える看護師になるためにオーストラリアに来て、その先にはMSFがある。半年考え、車も家具も全部売り、アパートを閉め、バックパックひとつで帰国。7年のオーストラリア生活を終えました。