――キンシャサで結婚、ゴマからニューヨークへ

2010年、長女とニューヨークにて
2010年、長女とニューヨークにて

木下:コンゴ人の夫とはキンシャサの合唱団で出会い、結婚しました。
その後、UNICEFコンゴ(民)の東部地域事務所で、プランニング、モニタリング、評価の仕事に就き、コンゴ(民)とルワンダとの国境近くのゴマにある事務所を拠点として、コンゴ東部を出張で駆け回りました。
同じころ、ロンドン熱帯衛生大学院の疫学研究修士課程に入り、最初の1年目はゴマにいたため、頻繁な停電で全く勉強できませんでしたが、その後、UNICEFニューヨーク、ニカラグアに転勤となり、5年かけてようやく2つ目の修士号を取得しました。
ニューヨークに異動したのは妊娠がきっかけでした。ゴマは、治安が悪く、緊急援助のための赴任地だったため、私が行けるような産院はなく、結局UNICEFニューヨーク人事部の配慮で、妊娠7か月の時、ニューヨークの本部に異動、ここで、ナリッジマネージメントスペシャリストとして、産育休をはさんで3年間働きました。

2015年、国連創立70周年記念日にニカラグアの同僚と
2015年、国連創立70周年記念日にニカラグアの同僚と

木下:その頃、UNICEF内部の戦略、組織構成が変わり、私達の部署がなくなることになり、国連だけではなくNGO含め20以上のポストに応募したところ、念願のUNICEFニカラグア事務所の副代表に採用されました。現地と本部の経験があり、スペイン語ができたので認められたのかもしれません。スペイン語についてはアメリカ留学中にドゥーラ(産前産後のお母さんをサポートする)の資格を取り、ヒスパニック系の妊婦さんのお産をサポートしながら、医療スペイン語を学び、ニューヨーク本部時代は、国連職員向けの公用語のトレーニングコースが無料で受講でき、ブラッシュアップできました。
ニカラグアは中所得国でしたが、まだ貧困率が高く、子供の人権問題が山積でした。また、政情が急激に変化した2015年から8ヶ月間、UNICEFの代表代行を務め、難しい交渉の場に何度もたたされ苦労しましたが、そこからの学びは大きく、いい経験になりました。

――再びアフリカへ

2016年ブルキナファソにて
出張先で出会った避難民の子供たちと、
2016年ブルキナファソにて

木下:2016年から、西アフリカのUNICEFブルキナファソ事務所に副代表として4年、2020年2月から半年、セネガルのダカールにあるUNICEF西部・中部アフリカ地域事務所(24か国統率)のパートナーシップ部署のシニアアドバイザー代理を務め、通算14年にわたるUNICEFでの仕事は、とてもやりがいがありました。
8月から国連人口基金(UNFPA)のボリビア事務所代表に就任しました。COVID-19のため、しばらくはセネガルからのリモートワークになりますが、私の原点である母子保健学を活かし、結果を出したいと思います。

2017年、カボレ大統領に鉱山産業と子供の人権についてご説明、中央はユニセフ代表
2017年、カボレ大統領に鉱山産業と子供の
人権についてご説明、中央はユニセフ代表
2019年、政府と提携して児童婚撤廃キャンペーンを実施、オープニング式典であいさつ
2019年、政府と提携して児童婚撤廃キャンペーン
を実施、オープニング式典であいさつ

――家族が一緒にいるためには女性が大黒柱になってもいい

コンゴ(民)出身の夫と娘(10歳、2歳)ダカールにて
コンゴ(民)出身の夫と娘(10歳、2歳)ダカールにて

木下:キャリアアップを求めて数年ごとに勤務地が変わると、夫婦それぞれが同じ国で自分のやりたい仕事を見つけることが難しい状況になりました。私にとっての最優先事項は、どこに行っても家族が一緒にいることでした。出産後ニューヨークでは夫が娘を乳母車に乗せて職場に連れてきてくれ、完全母乳育児ができました。仕事が忙しい時は朝7時から夜中まで働くことがありますが、子どもと一緒に過ごせないジレンマを夫がカバーしてくれ、それで家族の絆が深まっていることに感謝しています。10歳と2歳の娘は夫とはフランス語、私とは日本語で話します。長女の学校がインターナショナルスクールなので、英語、仏語、西語と、多言語の環境で育っています。Covid-19でセネガルも学校が閉鎖になりましたが、幸いにもインターネットを使っての授業を通して、小学校4年生を終了することができました。現在はボリビアの新しい学校に転校し、オンラインで勉強を続けています。

――国際機関を目指す若い方へのアドバイス

木下:自分の心の声を聴き、夢を持つ。2-3年後、5-10年後のなりたい自分を想像し、それに向かって今日から努力する。まずは言語です。ヨーロッパ出身の方は普通に3か国語以上できますから、そういう人たちと競争していくにはまず言語を話すだけでなく、きちんと書けることが必要です。私は学士まで日本にいたので、発音はネイティブレベルには及びませんが、それでも努力して、英・仏・スペイン語を学び、難なく仕事ができるレベルまで到達しました。言葉ができるとあらゆるチャンスが広がると思います。
国連で働く醍醐味は、ダイバーシティとマルチカルチャー。さまざまなバックグラウンドの人とアイデアを出し合って、一緒に仕事をして行くことが私は好きです。ただし治安の悪いところには家族帯同できませんから、若い時に大変な国に行って学んで、家族ができれば一緒に行けるところ、また子どもができれば教育の質の高い国で仕事をするのが望ましいと思います。
国連のキャリアが終わったあとの人生を考えて、現在、思春期の男女のジェンダー形成とリプロダクティブヘルスについての博士論文を書いています。私自身もいろいろな舞台を経験し、これからももっと成長していきたいと思います。

インタビュアー 清水眞理子