世界保健機関(WHO)財務部
トレジャリー・リスクマネジメントセクション
ファイナンスマネジャー 松尾 嘉之  [まつお よしゆき]

松尾 嘉之

1964年京都生まれ、東京育ち。1987年早稲田大学法学部卒業。1992年6月INSEAD MBA(経営学修士)卒業(フランス、フォンテーヌブロー)。1995年日本証券アナリスト試験合格。日本証券アナリスト協会検定会員。2016年米国公認会計士試験合格(US CPA、米国ワシントン州登録)。1987年邦銀に就職、2000年から現在まで国連機関に勤務。2000年~04年国際労働機関(ILO)財務部Central Payroll Unit チーフ。2004年~07年世界保健機関(WHO)財務部 財務専門職。2007年~11年ユネスコ本部(UNESCO)、ユネスコ職員のための貯蓄・貸付部門ゼネラルマネージャー。2011年3月~現職。

――大学卒業後銀行に就職、海外派遣研修生に選ばれフランスへ

松尾:アメリカとフランス両方の大学院に合格しましたが、高校時代フランス語を第2外国語として勉強したこともあって、フランスを選び、トゥールでフランス人家庭でホームスティしながら語学研修、続いてフォンテーヌブローのINSEAD(インシアード)に入学しました。当時は授業8割英語、2割フランス語で行われていたため、英仏語を含む3ヶ国語ができることが入学条件でした。26歳にして初めて飛行機に乗ってフランスに着き、今までと全く違う人生が始まりました。10ヶ月に凝縮されたMBAコースだったので、最初の数カ月は、日々の授業に課されるリーディングや数々のグループワークで時間を取られ、寝る時間が足りない毎日でした。いろいろな国の人と出会い、国民性や考え方の違いを肌で感じ、この時の経験が後に役立ちました。
無事MBAを取得して、日本に帰国しましたが、すぐにベルギー現地法人に派遣されました。10人くらいの小さい所帯でいい経験を積め、INSEADの卒業生のネットワークを通して友人もたくさんできました。ブラッセルで家内と出会い結婚。彼女はベルギーのルーバン大学の日本学科卒業で日本に行ったこともある女性でした。妊娠6か月の時に日本に転勤になり帰国。東京で出産。彼女は日本の生活になじんでいたものの、私の方は長い労働時間の日々で夜11時過ぎの帰宅。土曜日も出社もあり。家族と過ごす時間も少なく、このままの生活をしてはいけない。ヨーロッパに戻るほうが良いのではないかと考えるようになりました。

――ヨーロッパで働くことを考え、国際機関にチャレンジ

松尾:時はバブル崩壊で日本企業が海外から縮小・撤退の時期でした。当時勤めていた銀行も、海外拠点を縮小し始めていた時期であり、また、ヨーロッパの拠点にはすぐには転勤させてもらえそうにないことから、転職を考え始めました。当時は、ヨーロッパの金融機関で日本人として働く場合、現地の日系企業の担当者か、日本株運用の専門家の求人ぐらいしかなく、私のバックグランドとはあわず、また、ヨーロッパの金融機関では当然ヨーロッパ人の方がキャリアアップが優先され、日本人としては将来のステップアップが見込めないため、ほかにどこか良い勤務先はないものかと探していました。
そんなときに1997年の暮れに日経新聞で「国際労働機関(ILO)が職員募集、リクルートミッション来日」の広告を見つけました。条件が「大卒、大学院(マスター)取得、英語・仏語が使えること」、募集分野に「財務会計金融」が含まれているのをみて「これなら自分に合っているし、国際機関なら、外国の企業と比べると日本人でも昇進の可能性がある。」と思い、応募しました。

――ILO採用までのみちのり

家内と二人で
家内と二人で

松尾:ILOの東京事務所で筆記試験を受けて、数か月後に面接を受け、さらに数カ月してジュネーブから、「あなたはロスター(候補者のリスト)に載りました。」と連絡がありました。単にロスターに載っただけで、具体的な採用が決まったわけではなかったので、そのまま放っておくしかありませんでした。そろそろ忘れかけていた半年位経った頃、再度東京のILO事務所から「P3のポスト、給料の支払い担当のファイナンス・オフィサーが空席になったので応募しませんか?」という連絡をいただき、ちょっと自分のバックグランドとは合っていないかと思いましたが、他にめぼしい当てがなかったので応募してみました。再度筆記試験を受けて、しばらくすると、「2週間後の金曜日に面接を行うのでジュネーブまで来てほしい。」と連絡があり、驚きました。夏1週間、冬1週間しか休暇が取れない銀行で、たまたま、その2週間後に夏の休暇を予定しており、その上、北海道旅行から水曜日の朝に羽田に戻って来るところまでは決まっていたものの、それ以降は予定が入っていなかったので、まさに絶好のタイミングでした。
現在はskypeやZoomで面接を行いますが、当時の最終面接は、面接パネルメンバーとの対面面接でした。そのため、水曜日の夜、成田空港で航空券を受け取り、夜11時成田発パリ便で出発し、ジュネーブには木曜日の朝に到着。金曜日一日ILOのジュネーブ本部でインタビューを受けた後(5人別々に面接)、夕方の便で東京へ帰るという3泊4日(機内2泊、ホテル1泊)の短い旅行でした。幸い、ILOに採用が決まり、2年契約しかもらえなかったものの、このチャンスを逃してはならないと思い、13年弱務めた銀行を退職し、家族とともに2000年ジュネーブに渡りました。

――国際機関でのキャリアアップはジグザグ方式

松尾:ILOにはP3で入って部下は8人、全員フランス語が母国語の人たちでした。銀行時代と比べると、労働時間がかなり減り、家族との時間も増えたので、当時の年収を年間総労働時間で割って、1時間あたりの賃金を計算したところ、銀行時代に比べて2倍以上になったことがわかりました。将来のキャリアアップについて国連職員の先輩方にいろいろ相談すると、「内部で上がるにはポストが空かない限り無理、他の国際機関に移ってワンステップ、また他に行ってさらにワンステップというジグザグにキャリアアップをしていく方法がいいよ」と勧められました。