WHO(世界保健機関)感染症ハザード
シニアアドバイザー 進藤 奈邦子  [しんどう なほこ]

進藤 奈邦子

東京慈恵会医科大学卒、専門は内科学、感染症学。英国セントトーマス病院、オックスフォード大ラディクリフ病院、慈恵医大内科学講座での臨床研修を経て、国立感染症研究所、感染症情報センター主任研究官として勤務。2002年よりWHOに派遣、2005年よりWHO職員。感染症アウトブレイク情報の収集と解析、フィールドレスポンス、インフルエンザ流行防止策などを担当。SARS鳥インフルエンザ、インド洋津波、アフリカでのウイルス性出血熱、新型インフルエンザ、中東呼吸器症候群コロナウイルスなどのWHOレスポンスを担当。2012年1月よりインフルエンザ及び呼吸器系疾患のチームリーダー。2013年1月よりさらに担当範囲を広げ、新興・再興感染症の臨床管理および研究アジェンダ、ウイルス感染症に対する新戦略イニシアチブBRaVeを率いる。緊急事態にはWHO戦略的健康危機管理センターのスタッフとして行動し、世界的な健康危機となる重症急性呼吸器系疾患や鳥インフルエンザ、エボラ出血熱のアウトブレイクを担当。チームと共に世界各地で、極めて伝染性・危険性の高い病原体の感染制御・患者治療に関わる。2015年7月に調整官(上級管理職)に就任。重症感染症患者の集中医療管理とサイエンスの最先端をつなぐ特殊ネットワークWHO EDCARNを組織、21世紀型感染症アウトブレイク対策を展開する。 WHOの危機対応強化をねらう組織改革に伴い、2016年10月にEDCARNに加え、新設されたラボネットワーク、モデリング・予測ネットワークを束ねるマネージャー(管理調整官)に任命される。2018年1月よりシニアアドバイザーとしてWHOの感染症危機管理のブレイン役を務める。

――脳腫瘍で亡くなった弟の遺言で医師を目指す

進藤:高校時代アメリカに1年留学、建築家、ランドスケープデザイナーになりたいと思ったこともありましたが、弟を若くして脳腫瘍で亡くし、弟の遺言で医師を目指しました。
1990年に大学を卒業、脳神経外科で研修、大学からの選抜留学生として、研修時代にロンドンとオックスフォードで臨床経験を積みました。病院勤務を4-5年続ける間に結婚して子どもができて内科に転向、医学博士号取得コースで研究しながら診療を続け2人目を出産した頃、国立感染症研究所感染症情報センターができ、リサーチレジデントとして入職しました。国立感染症研究所はWHOの西太平洋事務局の協力センターにもなっていたのでそこから世界への道が開けました。

――4歳と7歳の子ども2人を連れてジュネーブに赴任

進藤:2002年から2年の任期でWHOのジュネーブ本部に派遣されました。WHO のインフルエンザ・パンデミック準備計画を強化すること、疫学諜報活動でインフルエンザ・パンデミックを早期に発見すること、という目的で、感染症のアウトブレイクを察知する諜報活動の部署に配属になりました。当時エボラやマールブルグなど出血熱系のアウトブレイクがアフリカで起こっていました。私はインフルエンザ・パンデミックの予兆をつかむために世界中の重症肺炎の集団発生を追いました。
ジュネーブには7歳と4歳の子どもを連れて赴任、2人とも英語ゼロの状態でしたが、インターナショナルスクールは英語が母国語でない子どもの受け入れには慣れていて、導入コースで歌や遊びを取り入れながら英語を学び、1年もたたないうちに通常のクラスに入れました。週一回土曜日に日本語補習校があったのでそこで日本人のお友だちと一緒に好きな漫画やゲームの話ができ、それは息抜きになったようです。
2年で戻る予定が、当時の事務局長が急逝、SARS、鳥インフルエンザのアウトブレイクが続き、知識とネットワークを持つ私を留任させようということになって1年延長。そして私のいたポジションが非常に重要だとWHOの中でも認識され、正規のポジションが作られ公募が始まり、私はそれにアプライしました。結果が出る前に任期が来て私は一度東京に戻り、感染研に復職、その後採用通知が届き、日本側にお許しを得て感染研を退職、WHOに正規職員として入りました。 2005年のことです。

シエラレオネ ケネマ病院にて
シエラレオネ ケネマ病院にて
ラッサ熱の患者さんの治療
ラッサ熱の患者さんの治療

――果敢にアフリカなど危険地帯に行かれました

進藤:私は感染症の専門医ですし、インフェクションコントロールドクターでもあります。実験室でのバイオセイフティートレーニングも受けています。WHOでは、あらかじめフィールドセキュリティーや現場のリスクアセスメントを行ってから現場に技術専門家が入るプロセスが確立しているので、入ること自体は怖くありませんでした。私の仕事は病院に直接入って、混迷と不安でいっぱの医療従事者の話を聞き、患者さんを診察し、カルテを読み、感染防御の方法を指導して、例えば医療者の「曝露してしまってどうすればいいか」という切実な訴えに一つひとつ丁寧答えること 。私は法医学で司法・行政解剖の経験もあり、ご遺体から検体を取ることなど実践的技能もあったので、重宝されて現場に送られることが多かったのでしょう。
アフリカでずっとフィールドをもっていたのはウガンダです。 またラッサ熱、エボラ関連で西アフリカのギニア・ベシエラレオネ、2005-6年マールブルグの流行でアンゴラにも長くいました 。

国連のヘリで移動
国連のヘリで移動
病院でスタッフに指導
病院でスタッフに指導
INO病院のスタッフと
INO病院のスタッフと
国連レバノン駐留軍と
国連レバノン駐留軍と