国連人口基金(UNFPA)ボリビア事務所
代表 / 助産師 木下 倫子  [きのした りんこ]

木下 倫子

1975年長野県生まれ。千葉大学看護学部卒業後、東京葛飾赤十字産院に入職、助産師として5年間勤務。2003年米国ノースカロライナ大学にて公衆衛生学修士号取得(国際母子保健学専攻)。2003年ノースカロライナ大学疫学部から研究者としてコンゴ民主共和国キンシャサに派遣。2006年UNICEFコンゴ民事務所キンシャサ及びゴマ(プランニング、モニタリングと評価担当)。2009年UNICEFニューヨーク本部(ナリッジマネージメント担当)。2012年UNICEFニカラグア事務所(副代表)。2014年英国ロンドン熱帯衛生大学にて修士号取得(疫学)。2016年UNICEFブルキナファソ事務所(副代表)。2020年UNICEF西、中央アフリカ領域事務所パートナーシップ上級アドバイザー(代理)。2020年8月より現職。南アフリカのウェスタンケープ大学公衆衛生博士課程に在学中。

――助産師は命が始まる瞬間に立ち会える

木下:大学で看護学を専攻し看護師と助産師の免許を取得、東京葛飾赤十字産院に入職しました。ここは第三次医療機関だったので緊急帝王切開もたくさんありましたが、同僚の助産師や産婦人科医とともに自然分娩を全面的に推進、院内で勉強会を開催して学びを深め、都内で自然分娩では最も人気の高い産院になりました。また、私はその頃から現場での研究が大好きで、育児電話相談室を通して初産の方が抱える問題をまとめるなど、充実した5年間でした。海外に出ようと思ったきっかけは、大学の卒業旅行で訪れたタイのバンコクです。発展の象徴ともいえる高層ビルのすぐそばにスラム街があり、衛生事情の悪い貧困に苦しんでいる人がいることを目の当たりにしました。母子死亡率が依然として高い途上国で母子保健改善に貢献したいと思い留学準備にとりかかりました。

――――アメリカで公衆衛生、母子保健学を学びたい

木下:アメリカには大学時代3カ月の短期留学で行っただけでしたが、英語は好きで産院勤務時代も英会話学校に通っていました。TOFLE やGREの準備をしながら、私立は学費が高いので州立大学にしぼり、大学のWEBサイトから情報を収集、何人かの先生に「私は日本の助産師で国際母子保健について学びたいのでアドバイザーになっていただけませんか。」とメールを送りました。するとノースカロライナ大学(チャペルヒル)のTrude先生からすぐに返事が来て、「先日東京で日本人の助産師に会って印象的だった。ぜひうちの学校にいらっしゃい。」幸い出身の長野県のロータリー財団の親善大使奨学生に採用され、留学が決まりました。

――完璧主義でなくていい

2003年大学院の卒業式
2003年大学院の卒業式

木下:アメリカの大学は宿題が多く、課題文献を読むのが大変で夜中の2時3時までかかりました。積極的に発言をしようと教室の最前列に座るも、睡魔に襲われ居眠りしてしまい、アドバイザーから大学のカウンセラーに相談に行くように言われました。カウンセラーの先生は、「外国語で公衆衛生学の修士課程で学ぶということだけでもすごいこと。」「日本では優等生だったかもしれないが、最終的に卒業できればいいのだから、この2年間を有意義に過ごしなさい。」とアドバイスされました。その言葉に救われ、肩の荷が下りました。またロータリー財団の奨学生だったので、地元のロータリアンの方がホストファミリーとして、生活面で支えてくださり、チャペルヒルが私の第二の故郷になりました。

――インターンシップでアフリカへ

木下:修士課程のコースワークの一部になっている夏休み中のインターンシップで初めてアフリカのマラウイに行きました。そこで家族計画の質的調査に協力すると同時に、マラウイの保健省から伝統助産師訓練のトレーニングのモジュールを改訂するので現在のニーズを調査してほしい、と依頼されました。へき地に住んでいる伝統助産師10人の家を訪問し、質的インタビューを行い、新生児ケアについての現状、改善点をまとめて、保健省に報告しました。また、使い捨てカメラで、伝統的助産師さんに自分の村の写真をとってきてもらい、一緒に話し合いながら村のニーズアセスメントを行いました(Photo Voice Study)。大きなお腹の妊婦さんがマラウイ湖で洗濯している写真は、水と衛生の問題だけでなく、ジェンダーの実態を浮き彫りにしました。インターンシップで集めたデータを使って修士論文を仕上げ、ボストン大学のアフリカ学会で発表する機会も得ました。

――6年半過ごしたキンシャサは毎日が学びの学校

木下:大学院を無事卒業、妊産婦とHIV/AIDSなど性感染症の研究でコンゴ民主共和国に行くことになりました。コンゴというと貧困、紛争地というイメージがありますが、私にとっては、毎日毎日学べる大きな「学校」のようでした。昔大学で映画『ルムンバの叫び』を見た時、アメリカ版青年海外協力隊のピースコープ(Peace Corps)でナミビア経験のある友人から「アフリカはどの国も同じような歴史を背負っている」と聞いていました。政治、経済、保健分野に至るまで現在の諸問題はすべて歴史とつながっていると思います。
ノースカロライナ大学とキンシャサ大学の公衆衛生学部の共同研究で現地のスタッフチーム20人をマネージメントするのが私の役割でした。妊婦さん1,000人を対象に感染症についてのデータを集め、その後、コンゴ(民)の赤道州で伝統助産師と新生児保健について研究をするため、事務所を新しく開設しました。
コンゴ(民)に引っ越してから3年ほどたった頃、休暇でコンゴ川下りをしたとき、偶然アメリカ出身のUNICEFコンゴ(民)のスタッフに会いました。「仕事を探している。」と言うと「プランニングスペシャリストの新しいポストを募集しているから応募しないか。」と誘われました。インタビューを経て無事採用され、2006年からユニセフ・コンゴ民主共和国事務所に勤務することになりました。