りんくう総合医療センター 国際診療科
部長 南谷 かおり  [みなみたに かおり]

南谷 かおり

1965年大阪生まれ 1987年 ブラジル国エスピリト・サント連邦(国立)大学(Universidade Federal do Espirito Santo) [UFES]医学部卒業。1988年 ブラジル国医師免許取得。1988年 大阪大学医学部研究生(老年病医学教室)。1989年 ブラジル国エスピリト・サント州 Santa Casa 病院救急科研修医。1990年 ブラジル国リオ・デ・ジャネイロ市 国家公務員連邦病院 (Hospital Federal dos Servidores do Estado)[HFSE] 放射線科研修医 1992年 大阪大学放射線医学教室研究生。1996年 日本医師免許取得。1996年 市立泉佐野病院 放射線科研修医、国立大阪病院(現国立病院機構大阪医療センター)市立貝塚病院を経て、2004年 りんくう総合医療センター市立泉佐野病院 放射線科。2006年 りんくう総合医療センター 健康管理センター兼国際外来担当医。2012年~地方独立行政法人 りんくう総合医療センター 国際診療科 部長。2013年 大阪大学医学部附属病院 国際医療センター 副センター長。2013年 大阪大学大学院医学系研究科 国際・未来医療学講座 特任准教授。2019年~大阪大学大学院医学系研究科 公衆衛生学教室 招へい教授

――父の転勤でブラジルに

南谷:私は大阪で生まれ、エンジニアの父の転勤で11歳小6から15年間ブラジルで育ちました。
ポルトガル語が全く話せなかったので2年遅れの小4に編入。現地校はひとつの校舎を小学校と中学校が半日ずつ使うので授業は半日制。日本人補習校(小規模の日本人学校)も半日制だったので両方通うことになりました。勉強は大変でしたが、日本人補習校の中3修了時にはある程度ポルトガル語ができるようになっていたので、両親が「そのまま7年生ではなく、高校に入学できないか」と現地校の先生に相談に行ったところ、高1には空席がなく、年齢では現地校の高2に相当するからといきなり飛び級入学しました。その高校は3年生が予備校になっており、1年生の内容はまとめて後で勉強できるからということでした。

――――国立エスピリト・サント連邦大学[UFES] 医学部に進学

南谷:ブラジルの大学入試は統一試験の総合点を用いて、各学科の定員に達するまで成績順で希望の学科に進学できます。医学部は最難関でしたが、英語は日本人補習校で基礎をしっかりやっていたので読解力はつきましたし、公文式のおかげで計算が早かった。そして、面白いことに国語(ポルトガル語)の文法の点数は平均的なブラジル人より高かった。日本語を不自由なく話す日本人でも動詞の活用を間違えていたり、現代国語の点数が取れなかったりする人がいるでしょう。私は外国人なのでポルトガル語の文法を一から正しく学びましたから試験で点数を稼げました。
なぜ医学部?立派な動機があったわけではありませんが(笑)ブラジルの大学は教員のストライキが頻繁にあって、授業がよく止まります。止まらずしっかりやっているのが医学部で、カリキュラムも朝から夕方までしっかり組まれていました。私は決して勉強好きではありませんでしたが、日本人からみるとブラジルは南国ムードのおっとりした国で夏休みも長く、このままだとダメ人間になるのではと将来に危機感を持っていました。ブラジルの学校は1月はじまりのうえ、私は早生まれで飛び級もしていたので、日本ではありえない16歳で大学に入学しました。

大学の卒業パーティーで家族・友人と
大学の卒業パーティーで家族・友人と

外国にいると病気になって受診しても言葉や文化の違いで不安になることが多くあります。当時日系人の医師が一人いらっしゃいましたが、私は医学生時代にアルバイトで日本人の駐在員と家族の医療通訳をしていました。といっても日本の医療システムを知っていたわけではなく、6年制の医学部を卒業しても22歳でまだまだ未熟だったので見聞を広めるため、卒後すぐに大阪大学第4内科に研究生として1年間私費留学しました。国籍が日本だったので、外国人留学生という枠には入りませんでした。

――ブラジルで放射線科のレジデント

リオの研修医時代
リオの研修医時代

南谷:1年でブラジルに戻りましたが、その後研修医になる試験を受ける必要がありました。ブラジルはイギリスと同様に卒業できれば医師免許がもらえますが、研修医になるには試験があります。研修医の枠が限られているため研修医になれずとも働けるよう、医学部5・6年生で日本の研修医レベルの業務を担います。私も5年生で出産を受け持ち、指導医の元で会陰切開もやっていました。 専攻科については女性なら将来的には家庭と両立しやすい放射線科がいいと勧められました。放射線科医師で読影を専門とすれば担当患者を持つこともなく、フレックスで働くことも可能という点からでした。しかし、地元では放射線科の研修がなかったため、リオかサンパウロ州で統一試験を受けて点数の高い順から好きな病院に行く道を選びました。試験勉強には、分厚く覚えるのに不向きなブラジルの医学書を使わずに、日本留学中に購入した重要ポイントが記載されている医師国家試験対策用の参考書で学習し、無事に希望していたリオの公立病院に合格しました。

――外国人は公立病院に勤務できない、放射線科医師として日本へ

南谷:リオの公立病院で2年間レジデントとして研修を積みましたが、公立病院の正規職員は公務員なので外国籍だとなれないことを知りました。私立病院は知人の紹介が必要で地元出身ではない私には難しい。放射線科の医師は医療機器が命、しかしブラジルの研修先病院にはCTはあってもMRIは購入して設置している段階でした。MRI・CTの台数がずば抜けて多い医療機器先進国の日本に行くことを決め、1992年大阪大学放射線医学教室の研究生になりました。

――日本の医師免許取得のために猛勉強

南谷:日本の医師免許を取得するのは大変でした。厚労省が先進国と認めていない国の医師免許取得者には、「医師国家試験受験のための予備試験」を受ける必要があり、まずは日本語検定1級、これは簡単に取れましたがそこからが大変でした。年に1回だけの基礎医学の筆記試験、臨床医学の選択式試験、臨床医学の口頭試験と3段階もあって、当時は毎年30-40人受験して(中国人がほとんどで10年受けている人もいました)合格者はだいたい一桁、その後日本の病院で1年間研修してそれでやっと医師国家試験の受験資格が得られるという流れでした。毎日図書館にこもって日本語で一から勉強し直し、3つの試験に合格した後に6年生と一緒にポリクリ(臨床実習)を受けて、国試に通ったのはブラジル医師免許を取得してから実に8年後のことでした。日本に最初に来たときは日本の一番若い医師より私が1歳年下だったのですが、研修後に帰国したときの同期は私より2歳年下、日本でポリクリを共にした同期は6歳年下でした。そのため私には、異なる世代の同期が存在し、これも案外悪くないなと思っています。