国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)シリア事務所
プログラム・サポートオフィス長(インタビュー当時) 川口 尚子  [かわぐち なおこ]

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京都生まれ。米国ニューヨーク市立大学・国際犯罪司法学学士号取得、イスラエル国テルアビブ大学・紛争解決に係る政治学修士号取得。主にアフリカ・中東にてNGO、政府機関、国際機関などでコンサルタントとしてプロジェクト管理・評価に携わる。2016年より国連プロジェクトサービス(UNOPS)マリ、ブルキナファソ、アフガニスタン事務所にてプロジェクト・マネージャー及び副マネージャーとして勤務。2021年より国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)シリア事務所でプログラム・サポートオフィス長として勤務。

――目標が見出せなった中高時代、英語が苦手だったから、アメリカの大学に進学

川口:京都生まれの大阪育ち、中学受験を無事突破したものの、中高時代はモチベーションがわかず、無為に過ごす日々、そんな時にミロシェビッチが人道に対する罪で起訴され、公判が行われました。その報道は、私が子どもの頃にみたユーゴスラビア紛争下、やせ細り、眼をぎらつかせて寒さに震えている、当時の私と同年齢の子どもたちのイメージとリンクしました。国際法廷という場できちんと子どもに対する理不尽な行為が裁かれる、これを私の将来の仕事にしたいとの思いが固まりました。成績はそれなりだったものの英語は大の苦手で毎回赤点でした。国際法を勉強するなら英語は必須だが、日本の大学に進学してがんばったところでものにはならない、それなら海外の大学に行けば確実に英語ができるようになるだろうという今から考えると甘い気持ちで留学を決めました。TOEFLとACTの点が取れ、当時は比較的授業料が安かったニューヨーク市立大学に合格しましたが、入学後は大変な苦労をすることになります。

――苦手な英語は人の何倍も時間をかけ、努力する。犯罪司法学を学び、インターンを経て現場に出たい気持ちが高まる

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テルアビブ大学院卒業式、学友と

川口:国際法を勉強したいと思ってアメリカに行ったものの、アメリカはコモンローを基礎とする判例第一主義で私が想像していた正義のイメージとギャップがありました。実際に裁判を見学しても、「結局口が達者な人が勝つ」法律を学んで仕事にするイメージはわきませんでした。一方で、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドといったサブジェクトにひかれるようになり、国際犯罪司法学を専攻。卒論はボスニアの民族浄化についてまとめました。
大学卒業後、国際機関でインターンからコンサルタントとして働く機会を幸運にも得ましたが、一身上の都合で継続を断念しました。その後さまさまざまな国際機関に応募しましたが、職歴がないので面接どころか書類選考ですべてはねられ、全く引っ掛からない日々を過ごしました。一時、フランスに短期滞在し、その後セネガルでフランス語の文書を英語でまとめるコンサルタントとして働き、この間にフランス語を習得しました。
その後、学部で学んだ「紛争の政治的な解決」をさらに深めるために、パレスチナ問題、ユダヤ人の問題について全く違う形で関わっているというイスラエルのテルアビブ大学院に進学、国際関係上難しい国だからこそ行ってみようと思い、紛争解決に係る政治学修士号を取得しました。

――2010年大学院卒業後、コンサルタントとしてプロジェクト管理・評価に携わる

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タンザニア時代、プロジェクト進捗の視察の時に、地方政府のスタッフと

川口:ケニア政府機関勤務を経て、在タンザニア日本大使館に2年勤務、草の根無償協力を担当、プロポーザル作成やモニタリング、予算配分など一連のプロジェクト管理が主な業務でした。ここでは病院関連のプロジェクトが多く、産科病棟や手術病棟、結核病棟の建設や改修、医療機材の調達と提供など、さまざまな経験を積むことができました。

その後レバノンで国際機関のプロジェクトの外部評価をするオフィスで働き、その間国際機関の空席情報をみつけては、さまざまなポストに応募し続けました。少しずつ書類選考にひっかかるようになってきましたが、筆記試験は受かっても、面接ではねられ、そういうことを繰り返す苦しい時期で、最終選考まで残って私としてはうまくいったと思っても、決まり切れない日々でした。もちろんJPO制度についても知っていましたが、この頃はP3のポストを狙っていたので、P2相当であるJPOには応募しませんでした。

――2016年、国連プロジェクトサービス(UNOPS)に職員として採用され、プロジェクトマネージャーとして約5年過ごす

川口:UNOPSのマリ事務所の面接はフランス語でした。先に述べたように、セネガルでコンサルタントとして働いていた経験があったのですが、しばらくフランス語を使っていなかったので少々不安はありましたが、どうにか採用されました。フランス語のポストは英語のポストに比べて応募者が少なく、そのため競争率も低くなるので、フランス語ができることは有利だと思います。公募はプロジェクト管理の専門として行われたため、公衆衛生というプロジェクト内容ではなく、プロジェクト管理、モニタリング評価、報告書やプロポーザル作成といった経験が問われ、その経験が評価され採用につながったのだと思います。その頃は、基本的にすべてプロジェクト管理に関連するポストを探して応募していました。

国連機関のベネフィット関連の支出は膨大でコストカットが迫られています。UNOPSではIICA(International Individual Contractor Agreement)という採用・給与形態がとられています。基本給は高い代わりに住宅手当、教育手当、引っ越し手当などの福利厚生は省かれています。ほかの機関もこれに追随していますが、評価・昇進などは同等に扱われます。扶養家族がいなかったその頃の私には、特に不自由のない契約形態でした。
UNOPSは、平和構築、人道支援、開発分野におけるプロジェクトの実施管理・物資調達を行う国連機関で、他の支援団体やドナーが治安上撤退せざるを得なくなったような場所でも現地で必要とされるプロジェクトを実行しています。

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マリの給水プロジェクトの完成式典にて

UNOPSマリ事務所では、北部の紛争地において公衆衛生の重要ポイントである水のプロジェクトを主に管理していました。プロジェクトマネージャーとして、プロジェクトの行程を組み、予算や人材を計画・管理、案件進捗をモニタリング・報告し、事業成果を評価する、といった一連の管理を行っていました。プロジェクトを実施している地域に赴き、その進捗を吟味するとともに、地域の政府や有力武装勢力とも相談・交渉しました。治安や人道支援情勢について、マリに展開しているPKOのMINUSMAや他の国際機関と意見交換を行うのも私の仕事でした。紛争地でのプロジェクト実施は、長い間の念願かなう仕事でしたが、予期せぬ問題が多発し、業務時間を問わず案件地やチームの安否を気遣う日々で、私自身も常に緊張していました。しかし、紛争下という不可抗力で困難な生活状況を強いられている人びとは、誰よりも本当に支援を必要としている人たちです。支援を届けることに成功した時のやりがいは、今までのどの職場と比べても大きく、その時に見ることのできる人びとの笑顔は何よりも美しく、いつまでも心に焼き付いています。

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アフガニスタン・ヘラート地方政府とのミーティングにて
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アフガニスタン時代にパキスタンで行われたワークショップにて

マリに続いて、同じく治安の不安定なブルキナファソ、アフガニスタンに勤務しました。アフガニスタンでのプロジェクトの規模が大きくなってきた時点でプロジェクトマネージャーとしてできることはすべてやったので、次のステップを考えました。ここではP3相当だったので次はもう少しマネージメントの責任のあるP4ポジションをねらったところ、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)とUNMAS(国連地雷対策サービス部)両方のP4ポストに応募・合格したのが36歳の時です