――2021年より国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)シリア事務所でプログラム・サポートオフィス長として勤務

川口:UNRWAは1949年に設立された、パレスチナ難民の保護と支援を行う機関です。教育、医療、社会福祉、難民キャンプのインフラ整備、マイクロファイナンス等のサービスを提供しており、シリアにおいては紛争が開始されてから、緊急支援も行っています。
私のオフィスはシリアに於けるすべてのUNRWAプログラムを円滑に進めるためのサポートを行う部署です。プログラム内容をすべて把握した上で、シリア事務所の代表陣がプログラム管理に関わる戦略を決定する際の支援を行い、各種現場での問題を解決します。また、各プログラムのニーズを特定し、ドナーと協議して資金を確保、ギャップを埋めるためにプロジェクトを立案します。プロジェクトが予定通りに実施され予算が適切に使われていることを確認し、各プログラムの活動のモニタリング評価を行うのも私の管轄でした。
UNRWAシリア事務所全体で職員は約3000人、ほとんどがローカルスタッフでインターナショナルは約15人、パレスチナ人が大多数となっているので、当初はインターナショナルのスタッフの立ち位置の見極めに苦労しました。ローカルスタッフの信頼を勝ち取ることがとても難しく、それまでローカルスタッフはサポートという環境で働いてきた私にとってここでは違うチャレンジがありました。
私は中東圏を含むさまざまな国で働いてきましたが、若手のマネージャーとしてUNRWAで働き始めた当初は戸惑いの連続でした。例えば、私は基本的にストレートにものを言う方でしたが、「これはダメ」とストレートなもの言いは好まれず、今までのコミュニケーションの取り方を現地の環境に合わせる必要がありました。慣れるにしたがって、私の仕事観や優先順位も理解され、現場での仕事の進め方を尊重し、お互い歩み寄ることができて現在は円滑にすすんでいます。まさに異文化の理解が必要でした。

――言語の習得は必須、必要なら人の何倍時間がかかったとしてもやり抜く

川口:中・高校時代から英語だけは苦手で、言語にむいていないと痛感していました。アメリカに行っても、書いたペーパーを突き返される日々、しゃべるのも下手で聞き取りもできない、書いても怒られる、それでも英語は私には必要なことなので、ひたすら努力しました。毎日毎日書いて、大学の語学実習室で直してもらうことを繰り返し、大学を卒業する頃にようやく仕事ができるレベルに到達しました。仕事に必要ならやるしかないので人の何倍も時間をかけ、フランス語も習得、産休中にはこれまでやってきたのに少しずつしか成長していないアラビア語も仕事レベルにできればいいなと思っています。
強い想いをもって、失敗を含めどんな経験も糧にすると道は開けてくると思います。世界にはいろんな人、いろんな場所があって、その中で自分が出くわしたあらゆることにも柔軟に対応し、どんなに困難な状況でも受け止めて対応していける人が国際機関に向いていると思います。
私には自分のキャリア形成とタイミングが合いませんでしたが、JPOという制度もあります。そこには日本政府の支援がありますが、世界にはJPO制度がない国の方が多く、例えば知人のイラン人は、毎週毎週公募を見てCVを送り、試験対策をして、国際機関に挑戦して、実際にポストを獲得していました。こういうバイタリティあふれる応募者に勝たないと採用されません。でも逆に、同じように公募にチャレンジしていけば、必ず引っ掛かるようになります。日本の皆さまには、JPOだけでなく、自分の適性とやりたいことをしっかり見極め、それが当てはまる空席への公募にもっと挑戦してほしいと思います。P3のポストを勝ち抜く能力も経験もあるのに、公募にチャレンジせずJPOに応募している日本人の方もたくさんいて、もったいないと思います。ミッドキャリアやそれ以上のキャリアの人で「JPOの年齢を超えてしまったので」という理由で国連をあきらめる人にも出会いました。そういう人こそ、それまでの経験が評価され、P4やP5から国連キャリアを始めることができるという感触が現場にいてあります。もっと日本の有能な人が公募にチャレンジしてくだされば、国連のハイレベルポストを占める日本人の人数も増えるのではないかと個人的に思っています。

――臨月までシリアで働いてドイツで出産、母になって思うこと

川口:私の仕事はコロナ禍でもリモートということはなくずっとシリアの現場にいました。パレスチナの難民キャンプ、ヤルムークには紛争前には13万人くらいのパレスチナ難民が住んでいました。紛争で建物のほとんどが壊され、がれきになっているキャンプの復興が私のプログラム・サポートオフィスで一番大きな仕事の一つでした。シリアに於ける経済危機により、経済的に困窮して、家賃を払うことができなくなり、何ももたずに壊れた家に戻ってくる人びとへのサポートとして、まず食料品と必需品の現物支給が行われ、次にモバイルクリニックが作られました。週一回、車の中に医療機器を備え、がれきの一部、屋根だけ残っているところで診療だけ行うことから始め、帰還難民が増えるにともない、がれきの一部を改修した少しだけ良い環境の中で、現在週二回診療しています。UNRWAではその国の医師免許や看護師免許を持った、医師や看護師としての実践経験がある人たちがローカルスタッフとして働いています。それに加え、行政での経験がある人も大勢います。
ドナー関係も私の部署の仕事なので、ドナーのキャンプ視察にもアテンドし、臨月までキャンプを走り回っていました。最後に日本大使をご案内し、妊娠33週でドイツに飛び、無事出産しました。
私は「日本は島国で小さい国、広い世界を見たい」と思ってニューヨークに行きましたが、意外に日本の方が清潔、治安がよく発展していると感じ、日本のありがたみを知るきっかけになりました。残念ながら最近は少し変わっているようで、日本の経済、強味が縮小し、特に子どもや若年層にしわ寄せがきているように見えます。

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パレスチナ難民キャンプ・ヤルムーク地区にて
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ダマスカスのUNRWAクリニックにて

私自身日本の学校は楽しくなかったけれども、やりたいことをみつけられたのはラッキーだったと思います。子どもたちのモチベーションを刺激できる大人、環境があればもっと多くの子どもが元気になるのではないかと思います。

国連へのキャリアパスがまっすぐに進むことはめったにありません。私も当初は職歴がしっかりしていなかったので苦労しましたが、P4へのキャリアアップは比較的うまくいきました。職歴が公募の内容に合っていて、自分のCVがそれをしっかり表現できていれば、書類審査に合格することは難しくありません。筆記試験は自分の専門内、あとはCBI面接の意図を理解して自分を表現できれば公募へのチャレンジは皆さんが想像するほど難しくありません。適切な動機と粘り強さ、そして専門知識が段階的に積み上げられていれば、専門家としての志をかなえることができると思います。

インタビュアー 清水眞理子