――仕事と子育てを両立する日々がスタート

西田:息子は2人ともジュネーブで生まれ育ちました。1人目のときは「出産」に対しての不安と、家族がそばにいない場所ということへの不安もありましたが、出産直前まで仕事も忙しかったこともあり「悩んでいても仕方がない、やるしかない」という開き直った心境でした。長男が生まれてすぐ、神戸で国際会議があったときは大阪の実家に連れて行き、預かってもらうこともありました。私はホテルに缶詰だったため、搾乳した母乳をホテルの冷蔵庫に入れておき、それを弟が夜に仕事が終えた後、神戸まで取りに来て実家の母に届けてくれました。それを母が子どもに与えてくれたのですが、ずっと母乳で育ってきたため哺乳瓶のトレーニングができておらず、実家ではスプーンで少しずつ飲ませるなど大変な苦労をかけたようです。その後も下の子が生まれる前までは、長男はアジアへの出張時は一旦日本へ寄り、実家に預けて出張先に向かいました。日本までの交通費で出費がかさみましたが、その頃夫もよく出張に出かけていたので出費の心配より、私自身精神的にそれが一番安心だったのです。
子どもたちは二人とも生後2カ月半頃からクレッシュ(保育所)に預けました。アフリカやヨーロッパ出張の前は置いて行く子どものための準備で大忙しでした。留守にする間の子どもの洋服をすべて揃え、前々から計画的に搾乳をして冷凍してから出かけました。
長男が小学校に上がると、私の出張のたびに学校を休ませるわけにもいかず、日本へ連れ帰り実家で預かってもらうことが難しくなりました。夫も出張で家を空けることが多く、その頃からスイス政府の条件を満たした正規の雇用でお手伝いさんを雇うようになりました。お手伝いさんに来てもらいながらも下の子はクレッシュに通っていたので費用は大変でした。未就学児のクレッシュの費用に関してはWHOからの子育て支援は全くなかったです。夫婦共働きだから必要になった出費ですが、2人で働いていたから支払うことができたともいえます。

――学校選びに始まり、子どもたちは無事に大学院へ

西田:当時住んでいたアパートのすぐ裏にスイスの小学校の現地校がありました。しかし、当時の現地校の子どもたちは昼休みに一時帰宅することに加え、水曜日も休みだったため、働く女性にはまったく向いていませんでした。今は日本の学童のようなものがありますが、当時はそのような施設も制度もなかったため、現地校は断念することに。それでもしっかりと勉強の仕方を学んでほしいという思いがあり、ジュネーブ・イングリッシュ・スクールという小さなイギリス系の小学校への入学を決めました。この小学校は90%以上の生徒がイギリス人で、入学するのは難しかったのですが、2人とも通わせることができました。しかし、当時のジュネーブ・イングリッシュ・スクールは6年生までしかなかったので、中学校に進学するときにはまた学校を探さなくてはいけませんでした。中学校ではフランス語を学ばせたいと考え、2年間ランシーというプライベート・スクールのフレンチ・セクションに通った後、英語圏の大学受験を視野に入れてインターナショナル・スクールに移りました。幼少時にクレッシュに通っていたのでフランス語での会話は問題ありませんでしたが、ランシーでの2年間でフランス語の読み書きも問題なくこなせるようになりました。その後、上の子はスタンフォード大学に進んでからイギリスのUCLでマスターを取得、下の子はイギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンで大学院まで学びました。
学費は国連機関の学費補助があったので助かりましたが、下の子がインペリアルで2年生に上がるときに制度が改変され、それまで生活費の一部も学費補助に含まれていたのですが学費の援助のみとなりました。我が家はギリギリ間に合ったというところです。アメリカの大学生活などは学費も生活費も高額になるため、子供の学費の補助金の減額は国際機関で働きづらい一因になるのでは、と考えてしまいます。

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夏休みにカナダのナイアガラの滝に家族旅行(2002年)

西田:子どもたちは、小さいときからずいぶんといろいろなことを我慢してくれたと思います。クレッシュは18時半までなのですが、いつも最後のお迎え、しかもやっと迎えに来てくれたと思っても家には帰らずそのままオフィスに連れて行かれ、お腹が空いても「もうちょっとだから」と言われてお絵描きや本読みをされ、時には「頑張ろう、エイエイオー」などと謎の掛け声をさせられながら、文句も言わずに頑張ってくれました。まだ寝返りもできない赤ちゃんのときは、オフィスのデスクの一番大きな引き出しに毛布を敷き、臨時のベッドにしていたことも。子育てでは周りの多くの方々に助けられたのも事実ですが、あの子たちの我慢、頑張りがあってこそ乗り越えられたと心から感謝しています。

――上司や友人、習い事の先生まで、人生を通じてさまざまな人に助けられてきた

西田:私が仕事をしてこられたのは、さまざまな方々のサポートがあったからだと思います。大学生時代、大学院進学のためコネティカットへ引っ越すとき、ワシントンD.C.で習っていたお琴の先生がワシントンD.C.からコネティカットまで送っていってくださいました。その先生はお稽古に行くたびに「ちゃんと食べているの?」と心配してくださり、食事をご馳走になることもしばしば。お琴は上達しないままだったのですが(笑)、本当にお世話になりました。
WHOに入職してからも、当時は若い職員が少なかったためだと思いますが職員の先生方からとても可愛がっていただきました。WPROでは狭い敷地内をぐるぐる回ってマニュアル車の乗り方をマラリアの専門家だった日本人の先生から教えていただいたり、仕事でスラムへ向かうときはインド人の上司が心配してWHOのドライバーをつけてくださったりしました。しかし、当時のWPROが公用車として使っていた車は黒塗りのベンツ。高級車でスラムに乗り付けるわけにはいかず、ドライバーに頼み込んでインド人の上司には内緒で2~3ブロック手前で降ろしてもらい、そこからジープニーに乗ってスラムへ向かうようにしていました。WPROの事務所では、当時はまだ今ほど職員の数が多くなかったので、皆が家族みたいな雰囲気でした。ある日、インド人の上司に「今日は仕事が終わったら一緒に私の家に来なさい」と言われ、食事でもするのかなと気軽に訪ねたら「まずお風呂に入れ」と言われました。どうやらスラムでシラミに感染した可能性を心配して、上司の奥様がその処理をしてくださいました。このように職員同士の家族的な付き合いがあることに加え、仕事の面においても他のプログラムとの関わりも多く、職員一人ひとりがさまざまな分野の仕事を体験することができました。

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息子達によるサプライズ誕生日パーティーの様子(2018年)

育児についても、子どもたちは私が育てたというより、周りのいろんな方に育てていただいたと思います。WHOで子ども向けのクリスマス・パーティなどが開催されるのですが、そのときに限って会議が入ったりします。そういうとき、同僚の奥様が「一緒に連れて行くよ」と言ってくださるなど、同年代の子どもを持つ方々に随分と支えていただきました。そのおかげで、子どもたちは多くの経験を重ねることができたと思います。もちろん、夫も頑張ってくれました。子どもたちは土曜日の日本語の補習校にも行っており、小学校のときは絵日記や作文などの宿題がありましたが、アメリカ人の夫には日本語で書かれた宿題を見てあげることができません。私が出張に行っている間は、夫が私の宿泊先まで宿題をファクスで送り、チェックしてファクスで送り返し、土曜日の授業の準備をさせる、という協力をしていました。

――国際機関で働きたいが、家庭や結婚で思い悩んでいる女性は多い

西田:私は国際機関で働きながら、結婚し子どもにも恵まれました。もちろん、結婚に関しても子育てに関してもさまざまな紆余曲折があり、それぞれの場面で人生の決断をしなくてはいけないような分岐点もありました。誰もが皆同じではないので、私が歩んできたこの道、下してきた決断が良かったのかどうかは一概に言えないと思います。同僚の中には、結婚をせずに出産し、子育てを頑張りながら仕事にも専念している人もいれば、離婚を経験しながらも子育てと仕事を両立して活躍している人もたくさんいます。シングルマザーとして働きながら子育てをするのも、何らかの理由で離婚しながらも仕事も子育ても続けるのも、大切な一つの人生であり、それぞれが選択をするものだと考えています。私から言えることは、結婚についても出産についても先の不安を並べて悩む前に、自分はどうして国際機関で仕事がしたいのか、国際機関に入って何をしたいのかを一生懸命考えてほしい、ということです。「これをやりたい」と強く思っていると、自然と道が拓いていきます。不思議と「何かが起こる」のです。自分がどうしてもやりたいと思っていることをサポートしてくれる人も現れると思います。
最後に一つお伝えしたいのは、子を持つ親として今思うことです。それは「実家」、「ふるさと」という存在の大切さ。高校卒業後、海外に飛び出した私ですが、親(特に今は亡き父)は猛反対しながらも「いつでも帰って来い」と言ってくれました。「やりたいことを精一杯やって、どうしても無理なら帰ることができる場所」があるというのは甘えのように聞こえるかも知れませんが、帰ることのできる家族がいる場所があることは、心の安定感につながります。そしてその心の安定感があったからこそ、私も36年間さまざまなことがあってもWHOで踏ん張ることができたと思います。だからこそ、そういう「ふるさと」といえる場所を私も子どもたちにつくっておきたい。そしてそれは、海外で働いているからこそ必要なのではないかなと感じています。

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WHO事務局長賞(優秀賞)受賞(2023年)
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WHO副事務局長賞(優秀賞)受賞(2016年)

インタビュアー 地引英理子