香川女子栄養大学大学院客員教授
国際医療福祉大学公衆衛生大学院客員教授
西田 千鶴 [にしだ ちづる]
大阪府出身。渡米後に栄養人類学と出会い、コネティカット州立大学で修士号を取得、博士号資格試験を合格した後、36年間世界保健機構(WHO)に勤務。健康・開発栄養局や栄養・食品安全局の責任者として20年間にわたりコーデックスの栄養・特殊用途食品部会(CCNFSDU)と食品表示部会(CCFL)でWHO代表団の団長を務め、食品の品質を向上させるコーデックスの規格・指針の策定に深くコミットした。2023年3月にWHOを定年退職した後、米国科学・工学・医学アカデミー(NASEM)の栄養科学委員会のエキスパート・メンバーに任命され活動し、日本でも、2006年から香川女子栄養大学大学院客員教授として国際栄養学の大学院コースを担当し、さらに2023年から国際医療福祉大学公衆衛生大学院においても客員教授を務める。また、2023年アジア太平洋臨床栄養学会賞を受賞。
――突拍子もないアメリカの大学への進学が新たな視野を広げ、新たな出会いをもたらした
西田:今では海外留学は珍しいことではなく、帰国子女の方々もたくさんおられますが、当時はまだ非常に珍しかったのでアメリカの大学への進学について、両親はもちろん大反対でした。高校時代の友達も突拍子もないことをした私の行動に驚いていましたが、皆応援してくれ(興味津々だったのかもしれません)、多くの友達が日本を発つとき空港まで見送りに来てくれました。
今から考えると、若く無知で世間知らずだったからそのような無茶なことができたのだと思います。当初は言語学を志してワシントンD.C.にある言語学プログラムでよく知られていたジョージタウン大学へ進学したのですが、文化も言葉も違う国で生活しているうちに、言語はあくまでもコミュニケーションの手段であり、手段である言語よりも違う文化や人の行動を理解するためのもっと根本的な学問を学びたいという方向に段々と関心が移っていきました。そこで興味を持ったのが人類学でした。しかし、ジョージタウン大学は人類学専攻がなかったため、同じワシントンD.C.にあるアメリカン大学へ転校し、栄養と人類学をダブルメジャーで学びました。
そしてまたアメリカン大学に在学中に新たな「出会い」がありました。それは、大学4年生のときでした。新しい教授が人類学部に来られたのですが、その教授から当時はまだ新しい学問分野であった医療人類学を学びました。そして私が栄養問題に興味があるということで、当時はまだそんなに知られていなかった栄養人類学の論文などを紹介してくださり、どんどん栄養人類学という分野に興味が湧いてきました。
大学院は栄養人類学の有名な先生がいるコネティカット大学へ進学したのですが、父には大学院への進学も随分反対されました。父は私が学部を卒業するとき、卒業式に出席するため渡米して卒業式の後、私を一緒に日本へ連れて帰るつもりが、私が大学院進学を決めたので怒って予定していた渡米をキャンセルし卒業式には出席してくれませんでした。しかし、そんなことがありながらも大学院での勉強もサポートをしてくれた両親にはとても感謝しています。
――当時のWHOは、栄養分野の世界的エキスパートが集うエキサイティングな場所だった
西田:大学院を終えた後ゆくゆくは日本へ帰り、日本をベースに仕事をしたいと考えていました。でも、大学も大学院も日本で卒業していないので、当時私には日本に将来のことを相談する先生がいませんでした。そのため、日本と「Reconnect」する方法を探さなくてはいけないと思い、日本の外務省が募集していたJPO派遣制度に応募しました。今考えてみると、日本とのつながりをつくるために、国際機関で働くための支援や訓練を日本の若者たちが受ける機会を提供する目的で外務省がサポートしているJPO派遣制度に応募するのはおかしな話ですが、当時はJPOとして日本の外務省から派遣されることで日本とのつながりを築き直すことができるのではと考えたのです。
そして、1984年の半ばに日本人の女性として初めてのJPOとしてWHOのジュネーブ本部に派遣されました。当時のWHOは今とはまったく雰囲気が異なり、プロフェショナル職員の平均年齢も55歳と非常に高く、専門機関としての色合いが濃い職場でした。栄養分野でも世界的に知られた有名な先生方が数人在籍されていて、とても感動しました。当時大学院を出たばかりの20代後半だった私にはその職場環境は非常に刺激的で、プロフェッショナル職員の先生方もとても良くしてくださり毎日心がワクワクする時間を過ごしました。
WHOで最初に携わった仕事はUNICEFとWHOのJoint Nutrition Programでした。そのプログラムで、WHO本部に在籍しながら数カ月におよぶネパールでのフィールドワークに関わった経験などを通じ、1年が過ぎる頃にはもっと現場に携わりたいと考えるようになり、地域事務局、またはカントリー・オフィスへの異動を要請しました。最初はネパールでの仕事の経験もありWHOの東南アジア地域事務局(SEARO)に異動したいと思いその準備をしていましたが、ひょんなことがきっかけで当時WHO西太平洋地域事務局(WPRO)のプロブラム管理担当ディレクター(Director, Programme Management,約してDPM)のS .T .Han先生と出会い、この先生の下で働き、WHOでの仕事を学びたいと強く感じるようになり最終的にはSEAROではなくてWPROに異動することになりました。そして、このHan先生との出会い、そしてHan先生がDPMとして統制されていたWPROでの経験はその後私がWHOで仕事をしていく上で「羅針盤」となりました。困ったことや難しい事例に突き当たったときはいつも「Han先生ならこんなときなんと仰っただろうか?どのように対処されただろうか?」という心の声が聞こえ、考え、乗り越えてきました。
WPROに勤務していたときには、フィールドに出たいという希望もかない、地域事務局の仕事だけではなく、フィリピンのカントリー・オフィスが行うアーバン・プライマリー・ヘルスケアの仕事に従事させてもらうことができました。昼間はずっとスラム街を回って子供達の身体測定や栄養状況の査定、補足栄養プログラムの評価、バランガイ・ヘルス・ボランティアのトレーニング、Districtの保健局の利用不足の課題の解明などの活動に参加し、夕方オフィスに戻って地域事務所の仕事をこなす日々が続きました。大変でしたが、とても楽しく充実した毎日でした。
――結婚を機にWHO西太平洋地域事務局を退職。そして数年後、離婚覚悟でWHO本部での仕事に復帰
西田:当時はアメリカで結婚の約束をした人がいたのですが、WPROでの仕事が面白くて結婚は先延ばしになり、2年ほど経過してしまいました。さすがに相手から「いつまで待てばいいのか」と言われていたこともあり、面白くなってきていた仕事を断念することに躊躇はありましたがアメリカに戻り結婚。そのときWPROでは「JPOの任期が終了したら正規の職員として採用するつもりだったのに、辞めてしまうのか」と引き止められ、結婚前に夫がマニラまで来てHan先生のところに挨拶に行ったこともありました。
結婚後はアメリカで博士論文に取り掛かりました。しかし、そうして2年が経とうとしているうちに、国連食糧農業機関(FAO)とWHOが共同で初めてのIntergovernmentalな国際栄養会議を1992年に開催することが決まり、そのために設立されるFAO/WHOの合同事務局にWHO側の事務局担当官として来ないかという話が持ち上がりました。国連機関ではプロフェショナルの人材のグレードをP1〜P5、D1〜D2の7段階に分類していますが、JPOとして働いていたときはP2であったのに対し、P4のポストへのオファーでした。さらに復帰する場合は本部のあるジュネーブへ行かなければなりません。当時、夫はアメリカで弁護士として仕事をしていたため、一緒にジュネーブに行くには仕事を辞める必要がありました。私は離婚覚悟で復帰を決めましたが、夫と話し合いを重ねた結果、彼が折れて「2年くらいなら」と私に付いてきてくれることになりました。彼も自身のキャリアプランを持っていたので、大きな犠牲を払ってくれたのです。そして、当時の国連機関では夫婦が同じ機関で勤務することを禁止していたので、夫は国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)で人権関連のボランティアとして携わるようになりました。それが1990年の終わり頃でした。
――ジュネーブで長男が誕生。家族としての岐路に立つ
西田:1993年に長男が生まれました。ここで大きな選択を迫られました。1992年のFAOとWHOの国際栄養会議が無事に終わり、FAO/WHOの合同事務局での仕事が終了。WHO本部での仕事は地域事務局やカントリー・オフィスを通してメンバー国の実行計画作成、そして実行へのサポート、モニタリングなどと変わっていきました。でも、私の希望はやはりまた現場に出ることでした。しかし夫はテキサス出身で、テキサスに戻って地元を変えたいという夢を持っていました。彼はイエール大学卒業後、ハーバードのロー・スクールに進んでおり、ニューヨークなどで高給取りの弁護士になることもできたはずです。つまり、私にとってのフィールドは、彼にとってのテキサスだったのです。私がジュネーブを離れてフィールドに出るなら夫はテキサスに帰る、という話まで出ていたとき、家族をつなぎとめてくれたのは子どもでした。一家3人が(その後1998年に次男が生まれ一家4人になりました)家族として一緒にいるためにはジュネーブに根を下ろして暮らすことが最善の選択だ、という結論に至ったのです。
――夫婦が同じ機関で働ける体制へと変わり、夫もWHOヘ
西田:やがて、夫もグローバル・エイズ・プログラムで法律関係の仕事に携わることになりWHOで働くことになりました。以前は同じ国連機関で夫婦が勤務することはできなかったのですが、この頃にはその考え方に変化が生まれていました。同じ国連機関で夫婦が勤務することができないというポリシーは女性の登用を増やそうとするとき足枷の一つになっていたため、この制度変更によって、女性が国連機関で働く道が広がったと思います。
夫はその後、WHOでエイズ・プログラムだけではなく事務局長や事務局長補佐のシニア・アドバイザーなどとしても勤務し、仕事を通して私とは異なるさまざまな機密性の高い政治的な事柄に携わっていたこともありますが、私たちはお互いの仕事の詳細を話すことはしませんでした。人が異なればやり方は異なります。そして、専門も違うため話したところで言い合いになることは目に見えており、けんかの材料を増やす必要もないと考え、自分たちの仕事に関しては「必要な距離」を保つようにしていました。